自分がそう思うことは、「自分がそう思う」でしかない
「こんな風習にはもうウンザリだ!と、つい叫んでしまったことが。」
「一つ目。」の前半部分。
本質的な問題として、どの配列でも変わることなく【叩けばほこりが出てくる】ことは事実な訳で。
しかも、使い手である人間自身の入出力・処理部分は【ある一定の共通性は継承しているが、決して規格化されて製造されているわけではない】ことも事実な訳で。
人間の機能が個々人ごとに異なるという事実を目の前にして、それでなぜにこういう方向性で「一言で切り捨ててしまうのか」……私には到底理解できない、というのが正直な感想です。
まったく同感です。
「自分がそう思う」ことから導き出されるのは、「自分がそう思う」でしかないはずです。他人については、せいぜい「他の人も同じように思うかもしれないし、思わないかもしれない」程度です。
それなのに、そこから飛躍して「自分がそう思う」が「誰もがそう思う」となる考え方は理解できません。
大事なのは「自分がそう思う」ことをいかに「他の人もそう思う」につなげていくかです。
これには、他の人の考え方を理解して、尊重する姿勢が必要だと思います。
自分にとって良いと思うものを他人に紹介するとき、自分がその対象に傾倒しすぎていると「なんでこの良さが理解できないんだ」という態度をとってしまいがちです。そういう姿勢ではいつまで経っても「他の人もそう思う」には繋がりません。
自分がそうだから誰もがそうだという決めつけでは、そう思わない人の反発を買うだけで、良いことは何もないでしょう。
「一つ目。」の最後の部分。
そして、「極端な意見を書くときには、それは自分が感じた主観であるということを明示すること」も必要になるのかもしれません。
それが独善的な主観のままなのか、本当に客観かしうる検討を行った末の主観なのかは「読み手が判断すればいい」のであって、それを「書き手が示してしまう」のはちょっと違うのではないかな……と。
他人の参考にするために意見を書くならば、それが主観であるか客観であるかをはっきりさせることは、必要であると考えます。
なぜなら、主観部分と客観部分を区別せずに書くと、文章のどこが主観的意見でどこが客観的意見か見分けるのが難しくなるからです。こうなると、読み手が誤解して、書き手の主観的意見を客観的意見だと誤解してしまう危険性が高くなります。
このあとに、次のような話が出てきます。
「二つ目。」の前半部分。
他の入力法に対して「その良さを見極めずに叩く」という行為は、決して説得力を持ち得ないと思います。
仮に読み手がその入力法について熟知しているのならば、なおさらに「なぜこんな見当違いのことを書いているのだろう?」と疑問を抱くのみで、決して共感は得られないはずです。
そしてそういうことが書いてあれば、結局は文章全体についても「見当違いのことを書いているのではないか?」と疑問を抱くはずです……こうなっては、何もかも「始まる前に終わってしまう」可能性すらあります。
読み手が「見当違いのことを書いているのではないか?」と気がつければまだいいのですが(書き手が信頼を失うだけで、読み手に被害はない)、問題は、読み手がそのような疑念を持たず、その主観的意見を客観的なものとして信じ込んで、しかも書き手の主観と読み手の主観が食い違った場合です。
この場合、読み手はその文章にだまされて無駄な時間と労力を費やしたことになってしまいます。
「それは読み手が誤解したのが悪いのであって、書き手が責任を負うべきではない」という意見もあるかもしれません。しかし、他人の参考にするために意見を書いているのなら、書き手はそのような誤解が生じないように配慮して書くべきであると思います。
※関連記事「「そうかもなあ」と思ったことは実際にその通りであった」
自分にあった配列を選ぶ方法について。